昭和52年10月10日 月次祭



 通るところを通らせて頂いておると言う事は、大変尊い事でございます。問題はその通るところをいかに信心で勿論通るかと言う事でございます。今日は夕食が遅くなりました。私と久富先生と家内、繁雄さんの4人で食事をさせてもらいました。それでお神酒もいつもよりも控え目に私も久富先生もすこし頂く訳です。そしてそのお祭の時間まで手から足をもんで頂いて、でそのまま眠ってしまった。それで繁雄さんがもう時間ですよと言うて、起こしに見えたけれども中々そのしるしい訳です。
 金光様を唱えさせて頂いておったら、ご心眼に、私が修行中の時分に、着ておりました夏の洋服がございます。もうボロボロになっておるのを家内が修繕してくれて、そして袖口なんか段々こうやってこぉ、おりまげてまいりますから、こぉすこし短くなって。夏の服数年間夏服一着で過しました時代のことですけれども。そのお洋服を丁度、あの洋服掛けのようなこぉ足のついたのにですね。
 あんなのは洋服屋さんで見た事がない、あの人形型のではなくてから、何か恐らくこの丁の字型のに、洋服が掛けてあるという感じで、あのズボンが下にこぉそれに、出ておるところを頂いたんです。そしたらもう本当に、いっぺんに眠いとかきついとかが、飛んでしまうんですよね。不思議な事ですよ。私は信心とはね結局こういう心の状態で、とても神様仏様と言うておかげ頂けるはずもないし。
 こんな気持ちで参ったってと思うのですけれども。実際にお参りをしてみる雰囲気に触れただけでお話しを頂いているうちに、もう不思議に自分の心がですね、もう本当に2人見るように、心が変るのにはもうびっくりするぐらいです。私はその修行中に着せて頂いておったお洋服とですね、そのきついとがどんな関係にあるのか。中々ですね。不思議な事だと私は思います。
 ご心眼にそれを頂いた途端です、あの目が覚めるだけじゃなくて、「   」とそれこそ新しい血が、こぉいっぺんに流れ出すような感じがするんです。ほんとに通るところは通っておかなきゃいけないなという。今朝からの御理解の中にもみなさんに聞いて頂いたんですけれども。今、一生懸命いろんな意味で修行なさっておられる方たちのことでございますけれども。そのことをお願いをさせて頂いておりましたら、例えばね私昨日一昨日でしたでしょうか。
 新聞にあの松茸がこう出て。もうそれはずいぶん高いものらしいんですね。まるっきり、言うなら山の宝石だと言われるようにまぁ高いわけですね。だからそういう素晴らしいその松茸を生み成すというか、それは勿論松林ね。雑木林に行って松茸があるはずはありません。杉林の中に行って、松茸があるはずはありません。やはりいわゆるその松林の中に入って、しかもそうとうな年数をくって、そこからあのまぁいわゆる宝石のような宝物にも似たような、松茸がとれるんです。
 だからと言うてそういうなら松の木が元なんですから、それを切った所でそれを割ってみた所で、中から松茸が転がり出して来ると、言う事はないと言う事ですね。今朝からそこの所を松の下というふうに頂きました。私共九州で信心の稽古をさせて頂く者は、まず九州の金光教の祖と言われる桂松平先生、または久留米の初代、石橋松次郎先生。又は甘木の初代安武松太郎先生。これを当時九州の3松と言うておりました。
 そういう松の信心の土台というものがあって、言うならば合楽があるのでございます。その下つゆであります。その恵みを受けて今言うならば合楽でもうそれこそ、世界の宝になろうとしております。所謂合楽理念であります。そういうものがですその先生の信心をマスターしたからとかね、覚えたからだけで頂けるものではない。それにはやはり私自身が通る所を、通らせて頂いておるからだと言う事になるのじゃないでしょうか。
 その通る所を通らせて頂く、その通りざまというものがです、私はまぁある意味では神様の機感に叶うたね。その受け方が有り難い事になっていく土台を作った。苦労を苦労、難儀は難儀で例えば受けて、言うなら成程通る所は通っておるから、辛抱強いもなった。通るところを通っておるから、言うならば苦いも、まぁ甘いもすいもか見分ける事が出来るように、段々人物も出来てきたね。
 けれどもね、それではいけんのです。信心を持ってそこを通らなければです、言うならば我力が強うなると、言った様な事ではでけん。ただ辛抱力だけが強うなると言う事ではでけん。いかに信心を持ってそれが含味されね、それが味わられそれが、有り難いものになっていかなければ、ならないかと言う事でございますね。ですから本当にその例えば修行をさせて頂いておると言う事は、もう言うならおかげ間近しと言う事ですから。またそういう修行の後に力が受けられるのですから、実は楽しい事なんだと。
 苦しい例えば、お腹の大きないわゆる、妊産婦の方たちにね、本当にもうきついことでしょう、なさけない話しですねというふうには言わんでしょう。きつあんなさるばってんから、やはり目出度いというしか言わん。それはその次によいものが間違いなく生みなされる前提だからであります。私共信心をさせて頂くものは、そういう言うならば心掛けというか、ものがいるのです。
 私は先日ある教会の先生からお相談を受けました。教会大変まぁ繁盛している教会ではないらしい。まぁたまたまここのことを聞かせて頂いて、お参りをして見えて、それから本当に合楽で頂いたことを元にして、日々お取次が出来るようになった。それから1カ月後ぐらいに、ご大祭を仕えるときに、もう初めてまぁ小さいお広前でしょうけれども、あふれるようなご参拝があったというて、喜びの手紙が参りました。
 またその後にそちらの奥さんという方もお参りをしてみえて、まぁひたしく御理解を一晩泊まって頂いて帰られました。そしてその方を導いた方からおかげの泉を買って読まれました。ですからまぁここで買えば1冊百円ぐらいなもんですから、6冊買っても600円です。だから今度行った時に買ってきてあげましょうというて、その方が言われるところが、その奥さんが言われるのに、いやあんたが買ってきたやつをかして下さいっち。まあ始末倹約の意味もありましょうけれども。
 私はあれをね、1日あのノートをさせて頂いております。うつさせて頂いておる。そして、あの扉に書いてあるように少なくとも、10ぺんぐらいは読んで下さい。雑誌や週刊誌なんかを読むように、読み捨てではいけません。すくなくとも10ぺんは読んで下さいとその裏に親先生が書いておられます。書きますとねそれこそ、10ぺん読んだがたぐらいまぁ効果があるというわけなんですね。そういうふうにまぁ合楽一辺倒と言う事ではないですけれども、合楽の信心に段々きよして見えられた。
 その先生からお手紙を頂きました。すぐ隣りのお家が、今度家移りをなさらなければならない。それでそこの家屋敷をまぁ買ってくれないかというご相談。もうどこが買われるよりも、ちょっとこう渡り廊下を作ったら、もうその家に行かれるように近いところである。買いたいけれども中々ままにならない。こういう時どういう信心をさせて頂いたならば、まぁよかろうかというわけであります。神様に私お願いをさせて頂いて、西岡先生にそのことを申しました。
 そしたら私がその気になれば、おかげになると頂きました。その気になればおかげになると。だからそのことを西岡先生が、そのことになるという意味を、分かりやすく書いておられましたからね。西岡先生これではおかげにならんばいっち。一番最後のところでもいいから私が言うた通り書きなさいというて、もう一番終いのところにその気になればおかげになると、書いて手紙を出させて頂きました。
 これは皆さん信心させて頂いてね、もうその気になればおかげになるのです。そこでなら私共の信心をつまびらかに致してみますとです、その気になったかのようであって、その気でないと言う事が沢山ございます。もうその気になればおかげになるのです。愈々もう記念祭が後数日。もう記念祭がもう愈々もう始まっておるような感じがします。毎日もう日々御用を頂かれる方で、もうごったがえししております。
 ですからね私は何というても信心がね、私中心からやはり、神様中心に移行していかなければいけない。移っていかなければいけない。やはり教会を中心に考えますととても家ではじっとしてはおられない。勿論まぁ示現活動なんかも、こういう良いチャンスはございませんから、一生懸命出来ます。今日も丁度昼頃午後からいつも月次祭に、お参りをしてくる方達なんですけれども。
 今日ちょっと表まで出ましたら、3人でお参りをしてきよる。「おお、今日はえらい早う参ってきたですね」、そしたらやはり都合があるから自分の都合でまぁ昼参ってきたとこぉ言うのです。だからお参りと言う事だけの帳面消しだけは出きるけれどもですね、やはり月次祭だけには、おかげを頂くと言う事になっているんですから。月次祭にお参りをさせて頂かなければ本当じゃない。言うならば代用品のようなもんです。
 言うならば腹をそれを決めておくとですね、それが出来るんです。神様がさせて下さるです。ご本部参拝でも、もうご本部参拝はさせて頂くもんだと。先月久留米の稲垣さんが話しておられました、本当にもう何と言うんでしょうか。力のある人の一言ちゃ大した事ですよと言うて話しておられました。私の弟が稲垣さんの弟さん、今度こちらで初めて一緒にご本部参拝をなさった。そしてそのまぁすぐ側におられた綾部さんに、綾部さんご本部参拝は大体あなた方は、どういう心持ちでおかげを頂きなさいますか。
 それはね親先生がお参りなさるからですよとおしゃった。もう親先生がお参りになるのだからもう当然のこととして、お供して行くんだと言う事です。まぁそれでいたく感動したというお話しを聞きました。もう決め切っておる人の言葉というものは、そんなに言うならば響くのですね。「ああ今度はなら、いっちょお供しようか」というのじゃない。親先生がご本部参拝するときには、何をおいてもどんな事があっても、お供をするもんだと腹を決めておる。
 決めておる人の心というのは、言わば一言で相手に感動を与える事が出来る。勿論それが神様が受けて下さっていない、はずもないと言う事になるのじゃないでしょうか。もうその気でおる。もうその気になればおかげになるのです。しかもそれが力にもまたなるのです。自分を中心だと、自分の都合のよかとき、都合が出来たら、お金の御繰り合わせを頂いたならと言う事になります。それがです段々四六時中自分の生活の中に、コッポリ入ってしまう。
 そこに初めて自分の我情我欲が、無くなると言う事になるのじゃないかと。自分というものは愈々空しゅうなってしまう。神様の心の中に自分が入ってしまうのです。そこにわが身は神徳の中に生かされてあるなぁと、いうおかげが頂かれるのです。私共のまぁ修行中の時分にですね、こぉと決めた事がまぁ沢山ございましたが。もう箇条書きにずっと、帳面に書かなんぐらいに沢山ありましたがですね。
 「ああもしません、こうも致しません」と言った様な、また「こうも致します、ああもいたします」と言った事がですね、もう実に楽しく実行ができたと言う事でございます。その気になっておったからなんです。だからその気になると言う事は素晴らしい事です。これも稲垣さんが今日一緒にお届けをしておられました。5年祭が終わったときから、少しずつですけれども、10年祭のためにと思って、貯金を始めた。
 丁度今月が満期になる」、その気になると言う事。いや今度はねそんな方がいくらもありましたよ。とても普通ではそう言う事は出来るはずはないはずの人がです、そこにその気になって、実行し続けてきた所にです、自分では出来そうにもないことが、出きてくるのです。だからならその気になると言う事が全ての点に、その気になるおかげを受けなければならないと言う事のそのまぁ原動力ともなるものがです。
 私共がその気になると言う事。月次祭にはどげなことがあってもと。その気になるのです。しかもその気になると言う事が、ならお月次祭だけの事ではない、すべての信心生活の上にその気にならせて頂くところから、芯が有り難いものを言うならば、見やすいものになってくるのです。その気になっていないから出きんのであり、または信心は難しいと言う事になるのです。その気になると言う事。そこで私は今日その事がしきりと、心に響いて参ります。その気になると言う事。
 自分がその気になっておる積りだけれどもなっていない。なら本気で自分がその気になる、なった時にはどういう心の状態になるだろうかと、私思わせて頂きましたら頂く事がね、その気になったら是は例えば例を申しますと、久留米の初代の石橋先生が、当時の八千円という借金の為に、来る年も来る年も利払いだけで終わられた。ある元旦のおとそを頂かれるときに、お神酒をこぉ持ちながら「何年間利払いばっかりで終わってきたが、今年もまた利払いのために一生懸命御用をせにゃならん」。
 というふうに寂しく思われた。そしたら頭上に声があった。それがまさしく四神様の声であった。幽明からと先生は書き残しておられます。言うならば神様御霊様の世界からという意味です。八百俵の徳を授けるというおかげ、「   」それで神様が下さるならば、言わば愈々それをおかげを頂こうという気になられたわけです。神様が下さるなら頂こうと。それには頂こうと思っただけじゃない。
 その頂こうと思った、その心が日頃できなかった信心に踏ん切られて、四神様のお徳を九州中の小倉関係、久留米関係の出社に説いて回られたと言う事でございます。それが可能になった、いっぺんそうしたいと思って中々踏ん切りがつかなった、できなかった、それが出来た。そういう時に私はおかげを神様が下さるなら、頂こうという気に私はなれるんだと。神様が下さるなら頂こうと腹が決まった。
 腹が決まった所からです、今まで例えば、改まれなかった事が、改まれられるというほどしの、すっきりとしたものが心に頂けたときに、初めて自分がその気になったんだなあと、言う事が分かるというのですから。自分がその気になって、なら「一つどうでもおかげ頂かにゃならん、おかげ頂かにゃならん」というただその我情だけが、おかげ頂かにゃならんだけでお参りをしておるのじゃなくて、その気でおかげを頂こうという気になる時に、初めて神様の不思議なるお働きが、そこから起こって来る訳です。
 だから自分が頂こうと思っておる気があるならばです、もうそういう神様をおかげを下さろうとしておるのだから、ならこっちも一つ頑張ってから、それを頂こうと言う気になった時にですね、とても腹どん立てる様な事じゃ頂けんだろう。不平不足ども言う様な事では頂けん。もう金輪際この神様が下さろうとする、そのおかげを頂くために、もう腹は立てんぞときめ、決まったときにです。
 腹を立てんと言う事が、有難い事に感じられる程しのものが、私はその気になった時だとね。その気になればおかげになる。だからその気に、おかげを頂きたいから、ならいっちょその気になろう、と言った様なものではなくてです、もうもう次の信心がです、今まで出来なかった信心が、スキッとしかも見やすう出来るほどしの力。ここに不思議な不思議な力があると申しましたようにです。信心というものは不思議なものである。
 今宮崎から、奥さんが何千万という借金を作ったんです。それでもうご主人とはもうやりやり、ここへ参ってきながらもまぁ皆がおかげを頂いた、おかげを頂いた話しだけは聞くばってんか。私共がおかげを頂く筈はなかと。それでも兄弟が無理に進めるから参ってきてここに来るまで、もうここで話しを聞くのは、もう腹が立ってこたえんと言う様な状態だった。所が帰り掛けもやっぱ、一緒に同じ一生懸命喧嘩しながら帰った。
 そりゃ帰っただけじゃない、導いた人の家に行ってまた、「   」そういう状態であった。そこにです本当におかげを頂いた人がです、あれは何だったこさださんでしたかな。こさださんでしたかな、宮崎のね、にしおか先生。「   」だったかな。丁度そこに来合せた。そして私の話しを聞いて下さいというて、自分がどうにも出来ない筈のものが、どうにもなって行っておる状態を話してから、改めて感動してまた翌日参って来た。もうその時には、それこそお話しを頂くでも、目の輝きが違う姿勢が違う。
 それからもう何回も、夫婦で大祭前のごよう泊りがけで見えられます。そしてなら、この家内のおかげで、神様のかの字も知らなかった私が、神様と手を合わせて頂くようになり、御用をさせて頂く事が、こんなにも有り難い、泊りがけで御用をさせて頂いて、有り難いと言いよなさる。だからもう不思議な不思議な事じゃあると、言う様な事でございます。今度も二晩泊まりでしたかね、夫婦で見えておられました。そしてもう一生懸命御用をされる。だからそういう心の状態が開けて。
 それならば家内のおかげでなら信心が、こういう有り難い神様を分からせて頂くと言う事になったら、もうしめたものだとね、そういう時にです、いわばおかげをこれは受けられるぞ。と腹が決まるときじゃないでしょかね。私が今日はまだお酒の気も少し残っている。それで30分寝たけど、やっぱきつい飲んどるから。飲むほどしではないけれども、そのやっぱ中々目が覚めるとがしるしいね。まっいっ時寝せてくれんのというごと、感じがするんですけれども。
 月次祭がありますから、金光様と心に念じさせて頂いたら、途端に今言う様に小さいあの洋服掛けのような、低いそれに洋服が掛けてある所を頂いた。あんなものを末々合楽の宝にしょうと思って、家内が取っとった事ではないでしょう。また鞄とか破れたくつも残っております。それが大洪水でいっぺん流れた。流れたのが神愛会の大きな教旗と一緒に、ハゼの木に流れついとる。だから村内の方が是は金光様の旗じゃけんお宅のじゃると言うて、その靴を持って来て下さった。
 その時分にある熱心に信心された方が「もうこの靴は私が頂いていく、そげなんを持っていってからなになるの」と言いよったけれども。その方が綺麗に洗って実は持っていかなかった。それが今残っているのが、ここに残っている私は修行中に入って履いておった靴です。その破れた服なんかでも、これは末々のために取っておくじゃないけれども、今から思うとです、それは恐らくは合楽のあるかぎり、宝もののように大事にされることでしょう。松茸が例えばグラムいくらと言う様な、高価なものであり。
 宝物のようでありますけれども、そのなら松茸がです、松の木を割ったからというて、切ったからというて、そこから飛び出してくるのではない。言うならば松の下つゆである。神さまのおかげでその雰囲気とかね、又は通る所を通らせて頂くときの信心の状態がです、そういう得難い宝ものにも似たようなものが頂ける、又残してもおけれるようになってくるのです。そして言わば不思議な不思議な事はです、その言うならばご心眼に頂いた、そのときの私の夏服の破れた夏服を見てです。
 どうしたならば目がぱちっと覚めるのか。それこそ血が入れ代わる様にしゃんとするのか。これは分からんのです。いわゆる松を切ったから、割ったからというて出てくるのではないのです。そこまでには何十年間という、松茸が出来なければならない様な、そこに状態が条件が足ろうて初めて、それが宝ものと言う事になるのです。ためにはですお互いがこれは記念祭だけのことではありません。
 その気になって貰わにゃいけません。その気になればおかげになるのです。だからその気になった様にあるその気をです、もういっぺん確かめてみて、今まで出来なかった例えば修行。今まで出来なかった改まろうとして、改められなかった事がすっきりとした心で、改められるくらいなものが出来た時に、初めておかげを言うならばね「その気になれば、おかげになる」という心の状態になった時だと思います。
   どうぞ。